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2004年08月31日

8月31日 華氏911

 昨夜、夜中に娘が「耳が痛い」と泣き出す。相当痛いらしい。夏休みの「遊び過ぎ」の揺り戻しがここ数日涼しくなって一気に来たようだ。(大人も少しだるい)座薬とアイスノンをするが30分おきに痛みを激しく訴える。こうゆう時は本当にどうすることも出来ない。そばにいる。外の台風の風の音も気になって朝まで眠ろうにも結局眠れずに。一番に病院に連れていくと風邪だった。中耳炎をやっているので耳に来たとのこと。
 ぼーっとしながら銀座へ。現像のテストをみて本番待ちの間に映画「華氏911」へ。立ち見だった。映画は前作の「ボーリングフォーコロンバイン」の方が面白かったと思う。面白いと言うのは見応えとゆうことと同時に、「ボーリング・・」は「アメリカってこうゆう国だったの!初めて知った」という映画だったが、「華氏911」はたぶんアメリカ人が自身で「おれたちの国ってこうゆうことしてるの!?」と知る映画だと思った。というのは日本ではすでに我々がメデイアで比較的よく目にしている「すでに知っている」情報や言説が多かったから新鮮味に欠けた。そうゆう意味で「前作の方が・・」と思った。アメリカの選挙には力になるのかも。一番印象に残ったのはアメリカ国内の目もあてられないような貧しさ。日本含め外国向けにはアメリカの貧富の実質をもっと伝えるともっといいのに、より広いものが見えるのにと思った。日本もこのままだと教育、医療、文化・・あらゆることがまさにアメリカのように二極化、差別化が進む社会に進もうとしているのだから。そっちの方もリアルだ。悲惨だ。知っておいたほうがいい。
 帰宅すると娘はまあまあ回復していた。明日から出張なので安心した。
 

投稿者 Ken Kitano : 20:53

2004年08月30日

8月29日 泥のワークショップ

 うちの奥さんが泥でお面を作る親子ワークショプを開いた。保育園関係他各方面から12、3家族が我が家の近くの集会所で、泥をこねて竹ざるに塗って顔を作る作業に熱中。皆さん久しく遠ざかっていた泥だらけで遊ぶ快感に浸った模様。お昼過ぎには実に様々なお面が出来上がった。その後我が家に移動してビールとおでん。編集者Oさんご一家も世田谷から参加。Oサンのご主人は弁護士さんにしてAMラジオ好き。「伊集院光」や「宮川まさる」、「吉田照美のやる気まんまん」の話しで盛り上がる。

投稿者 Ken Kitano : 20:40

2004年08月28日

8月27日 終日暗室

 朝からずうっと暗室。重ねる焼きはほぼ終わり。これから徐々にまとめる作業に入って行くので重ね焼きの作業はしばらくしないかもしれない。our faceのネガの通し番号を見たら今日焼いた「8月6日広島の人びと」の分で272本目だった。自分で言うのも変だけど、よく撮って、よく焼いてきたもんだ。
 作業中に佐藤信太郎から電話。佐藤信太郎が近く発表するランドスケープシリーズ「非常階段東京」がコマーシャルフォトに載っているというので、晩ご飯を食べに帰る途中本屋に寄るが置いていなかった。かわりにスイッチの別冊で森山大道さんのヨーロッパでの展覧会のドキュメントが出ていたので買いたくなったけど、持ち合わせがまったくないことに気づいて買わずに(買えずに)帰る。本屋に行くと欲しい本がどんどん目に入ってしまうのでよくない。時間があるとour face写真集の原稿のことを考える。どうゆう方向でどうゆうテイストにするか考えるとまったくイメージがまとまらない。あまりにも取材してきたこと、出会ってきた人びとが個別だからだけど、まずは書き始めないと。書くことのなかからしか方向なんか見えてこないのだろうから。
 今日は少し肌寒いくらいだった。
 

投稿者 Ken Kitano : 02:07

2004年08月27日

8月26日 車が直った

 撮影と打ち合わせと原稿。
朝、修理から上がってきた車で家を出る。走ってみると滑るようにスムーズな走りで気持ちいい。車のハンドルのブレと舵が左に取られる症状がひどいので整備工場に出したら、タイヤの一部が膨らんで車体にあたっていたとのこと。工場の人は「東南アジア製のタイヤはたまにあるんです」とのこと。そのまま走ってたら確実にバーストしていただろう。
 各方面夏休みがだいたい終わったようで、何人かの人からしばらくぶりで仕事の電話がかかってくる。7、8月はほとんど無収入で制作と発表に追われていたので仕事しないと。
 

投稿者 Ken Kitano : 01:39

2004年08月24日

8月24日 夢民のカレー

 午前中撮影。お昼にM社で打ち合わせ。写真集制作に向けていよいよ動き出すことに。なんとしてもいい本にしたい。文章とこれまでの取材先へのフォローの作業を考えると一瞬気が遠くなる。が、この出版不況(一日に4軒の本屋さんが閉店しているという。特に写真集の現状は悲惨で、お話を聞いていると世にあれほどたくさんの写真集が出回っているのが奇跡の様に思えてくる)のさなかに本を作れるというありがたさを噛みしめて今年の後半は勝負だ。
 移動中、以前カレー通の編集者Tさんに教わった早稲田諏訪町のカレー屋「夢民」へ。メニューとトッピングの種類が多くて散々迷った末に夏限定のサマーカレーにたまごのトッピングを注文。ナスを中心にトマト、オクラなど野菜がたくさん。珍しく煮込まないカレーで、旬の野菜の美味しさがダイレクト。新鮮なうまさだった。また行こう。

投稿者 Ken Kitano : 23:28

2004年08月23日

8月23日 急に夏が遠ざかった感じ

 寒い。急に夏が遠ざかった感じ。昨日が今年最後の夏だったのか。自分の子供の頃のどの夏休みよりも夏らしい夏を今年娘は過ごした様な気がする。自分はというと夏休みにあまりプールや海や山に連れて行ってもらった記憶がない。
 昼間雑誌の撮影で小山へ。東北線の普通列車にグリーン車が連結されていた。やけに混んでいる思ったら10月のダイヤ改正まで普通料金で乗れるとのこと。JRにしては気前がいい。車中久しぶりに辺見庸さんの「反逆する風景」を読む。夕方森ミュージアムの小沢剛展「同時に答えろYESとNO!」の内覧会&オープニングに行こうか迷ったが、体調がいまいちなのと明日の打ち合わせのことを考えておきたいのでやめて美容院に髪を切りに行く。途中、現代美術作家のさっちゃんの新しいアトリエを通りかかる。自宅兼ギャラリー兼アトリエとして準備中らしい。夕暮れの半分降ろしたシャッターの前でさっちゃんはなんとなく元気そうだった。友達が頑張っているので少し嬉しくなった。娘が今日生まれて初めて行った歯医者で抜けそうでなかなか抜けなかった乳歯を抜いてもらった。なんとなく得意そうだった。なぜかこっちも頑張らないといけない気分に。この頃気がつくと停滞してしまうから、この際どんなきっかけでも自分へのいいプレッシャーに変えたい。なかなか進まない文章にそろそろ本気で取り組まないと。
 

投稿者 Ken Kitano : 23:56

2004年08月21日

8月22日 飯能川原で川遊び

ご近所のOさん一家、Tさん一家と映画の実写版サンダーバードを観に行く予定だった。しかし調べてみると公開2週目にして早くも上映回数を減らしている映画館が多いらしいし(客が入っていないと思うので)、家族づれだとお金もかかるので、急遽取りやめて飯能川原に川遊びに行く。道も川原もそれ程混んでいなくて楽しく遊ぶ。この川原には、はるか20数年前に小学校の遠足来たことがある。その時に住所を書いた手紙を瓶に入れて流したら(別に学校の行事ではなく、私が冒険小説のまねをしてやったのだが)、なんと半年後に下流で瓶を拾った女子高校生から手紙が来た。(思えば古典的な出会い系ツールだ。)その人とはその後何回か手紙のやり取りをしたけど、結局会うことはなかった。何しろ10歳の子供だったので18歳の高校生は離れすぎていた。もったいないことをしたものだ。あの女性は今ごろどこでどうしているのだろうか。自己満足の遊びから発した実験だったけど、かげろうのような、いるのかいないのか定かでない遥かな存在に、あてずっぽうに投げたボールが不意に返ってくることがあることと、川と時間が流れていて、それが時に何かから何かへとものを運ぶことがあることにはな垂れ小僧の僕は静かに驚いたのでした。

投稿者 Ken Kitano : 19:01

8月21日 娘が初お泊まり

午前中暗室。プリント作業はだいぶ先が見えてきた。
午後は娘と市民プール。はじめていった市民プールは広くて設備が調っていてびっくり。娘もご機嫌。今年の夏、娘は一気に水に慣れた。子供は勢いがつくとなんでも早い。娘が急遽実家で兄達の子供と一緒に「お泊まり」することになる。おかげで6年ぶりで夫婦で近所に飲みに行く。お肉屋さんがやっている居酒屋で馬刺しにレバ刺しにもつ焼きに持つ煮込と、ずっと肉ばっかりつまみながらビール。

投稿者 Ken Kitano : 18:40

2004年08月19日

8月19日 オリンピックは早く終わらないかな

 昼間撮影のあと暗室。メキシコ帰りのOさんというか方からメールを頂く。メキシコの知人からの伝言を頂く。なつかしいやらありがたいやら。
 世の中オリンピックのメダルラッシュで盛り上がっている。私は特に興味がないので、やっていれば多少観るというスタンス。(たまたま昨日観た福原愛選手はカッコよかった)それにしても新聞やtvメデイアはオリンピックにスペースを割きすぎじゃないか。過剰だよ。高い放映権を買ったからなのか。オリンピックの他にも沖縄のこととか大事なニュースがあるのに。とにかく日本人はオリンピックが好きだ。他の国ではこれほど連日中継したり、大きく取り上げられている国はないらしい。好きというより神聖視している感がある。これって日本人の宗教観や国民性と関係があるのでは?オリンピックは(表面的な演出にすぎないのだが、)他の国際試合よりクリーンで神聖なイメージがある。火を取り入れた原始宗教的な火祭り的(清浄と再生のイメージ)の要素もある。(でも聖火リレー自体はヒトラーが発明したと言われている。ベルリン大会の後にドイツは聖火の道を逆に侵略していったわけだけど)そうした清浄でクリーンな(見かけだけの)イメージに日本人は弱い。我々の清浄や清潔を好む国民性や宗教観がそこに勝手に幻想をみてうっとりする。それでメダルを取るとすぐに「おらが村的」共同体の物語に直結するという構図。(北島選手の荒川区の盛り上がりのように)つくづく日本は大きないなかだ。早く終わらないかなと、正直思う。

投稿者 Ken Kitano : 11:48

2004年08月18日

8月18日 とっても魅力的な空だったけど暗室に入る

 焼いても焼いても先が見えない。原稿も書かないといけないと思いつつ、写真ができ上がらないと落ち着かないので今日も暗室作業。春から取材した7つのour faceの肖像を今日もひたすら焼き続ける。
 夕方保育園に迎えに行く。同級のお父さんお母さん達と上映中の映画「サンダーバード」実写版に観に行く相談をする。吹き替え版の声をV6がやっているらしい。なんかイメージ違う気がする。娘の乳歯が抜けかけている。娘は得意そうだが少しさびしい。

投稿者 Ken Kitano : 22:26

2004年08月17日

8月17日 展覧会はしご

 今日も暗室に入ろう・・と思ったが、見たい展覧会が幾つかやっているので久しぶりに、ホント実に久しぶりに美術館へ。それも思い切って3軒はしご。
 岡本太郎美術館は初めて行った。広い丘陵地全体が公園になっている川崎民家園の一角にある静かできれいな美術館だった。企画展の内藤正敏さんが焼いた岡本太郎の日本の写真と内藤さんの写真を対置させる形で展示した展覧会を見るのが目的だったのだけれど、常設展もゆっくり見られてよかった。入ってすぐの「重工業」という絵に魅かれた。それと入り口に書かれていた「対極主義」という言葉にも。どんな芸術にも異なるベクトルが作家の中でせめぎ合うところから何か発見され生まれるとは思うが、岡本太郎の世界に触れるとき、この異なる極と極が壮絶なまでにせめぎ合いながら同居する強さと美しさにいつも打たれる。後年岡本太郎はメキシコを訪れるけれど、思えばメキシコほど対極が同時に存在する国もない。近代科学と土着文化、生と死、光と影、永遠と一瞬、爆発的な陽気さと死のような静寂、etc・・。 岡本太郎がメキシコに行ったのも必然という気がするし、未完に終わった壁画と塔の制作のこと(メキシコシテシのオテルデメヒコのなかに、ポリフォルムデシケイロスの並びに巨大な塔を作る計画があったが、時の文部大臣が変わり計画がとん挫した)が残念でならない。売店で売っていた「岡本太郎とメキシコ」展の図録に岡本太郎がシケイロスに会った時のことが書かれていた。(たしか共同通信の伊高さんの本にこの時期シケイロスと岡本太郎の両方に別々にインタビューしたテキストがあった)
 内藤正敏さんとの写真展はやっぱり恐山や出羽三山が中心だった。実は先日行った北海道で岡本太郎の沖縄作品をスライドで見る機会があって、見ていて思わず胸が熱くなったばかりだが、今回は東北。出羽三山はじめ日本の聖地や信仰の場にはour faceや雑誌の取材でかなり行っているので、以前よりそうした人間の原初的な世界に触れても入りやすくなっている自分に気づく。写真のサイズが大きすぎてかえって写真と向き合いにくい気がしたが、それはともかくふたつの巨大な知に支えられた民族学(民俗学)が互いにぶつかりあって、日本の原初の時間軸へと深く深く降り立つような、そんな写真展だった。もしご覧になる方はどうか「珍しいものをみる眼差し」を捨てて見てもらいたいと思う。
 次は川崎市民ミュージアムへ。9月5日までの「日本の幻獸」展は鬼や人魚、河童など日本各地に記録されたり残っている幻獸たちの資料やミイラを集めた企画展。さっき湯殿山の即身仏の写真を見た後にここで人魚や河童のミイラをみると、ほほ笑ましいというか、人間の異界を見ようとする眼差しが生んだ愛玩物(というか工芸品?)と言う気がして笑えた。でも子供がみたら相当怖いと思う。こうゆうものも各地で見慣れてしまった自分に気づく。
 3番目は松涛美術館「瑛九」展。美術運動デモクラートの中心的な作家という認識だけど作品はよく知らなかった作家。有名なフォトグラムは何点か見たことがあった。銀座の画廊ではじめてみた印象は、やさしくて悲しくて繊細で大きい、何しろ深い印象だった。今回は晩年の3年間に描いた大小様々な点描で描かれた作品が深く深く胸に残った。福島辰夫先生や細江英公先生や池田満寿男さんら数々の若い芸術家が集まった浦和のアトリエというのはどんなところだったのだろう。48歳で亡くなったというのは意外だった。
 夜、札幌のAさんと東川のことを電話で話す。

投稿者 Ken Kitano : 11:44

8月16日 佐藤信太郎のパスタ

雑誌の撮影で都心に。お盆の時期の都心の道路は空いている。いつもこうだといいのにと思う。普段の半分くらいの時間で走れるかんじだ。最近愛車のハンドルを左に取られる傾向が強くなってきた。その上時々小刻みにハンドルがぶれる。16万キロも走っているので一年に一ヶ所くらいガタが来るのだが、ハンドリング系というのが気になる。現場に早く着いたので坪内祐三さんの「靖国」を読み始める。
 夕飯は友人の佐藤信太郎のHPにのっていたパスタを作る。オリーブオイルでニンニクとざく切りのトマトを炒める。今日はそこにツナも入れる。ゆでた麺をいれ、味付けはクレイジーソルト。今日は固形スープ少しと白ワインもいれた。でもトマトとクレイジーソルトだけでも簡単で十分に美味しいのだ。佐藤信太郎は写真家なのにHPの日記は料理のことばっかり書いている。すでに我が家には「佐藤信太郎さんの何とか」という名前で呼ばれているメニューが幾つかある。なぜかフルネームで呼んでしまう佐藤信太郎のHPは
http://shinsato.cool.ne.jp/で、この秋に個展をやるらしいので楽しみ。

投稿者 Ken Kitano : 01:25

2004年08月16日

8月15日 バナナマンライブ

昼過ぎまで暗室。暗室の中で久しぶりにTBSラジオ伊集院光「日曜日の秘密基地」をはじめから聞けて嬉しい。ゲストのイッセー尾形さんのインタビューがすごく面白かった。夕方からSPA!編集部Sさんと銀座ガスホールで「バナナマンライブ」。芝居っぽい長めのコントを中心に合間に映像で見せる構成。前半は今一つノレなかった。ホントあと一歩のところではしごを外されるような感じ。でも後半の会社員ネタは面白かった。安心してみられるような人格が掛け合ううちにだんだん奇妙な人格になって、気がつくとまた元に戻ってくるみたいな。不条理で微妙な笑いの世界。こうゆう笑いの世界は基本的に好きだ。同じホリプロだとJJポリマーなんかも以前観た不条理っぽい芝居っぽいコントに何度も「クスっ」とさせられた。(笑いは例えば劇場が揺れるような爆笑も、この「クスッ」の連鎖から。だから芝居やライブでの「クスっ」って大事だと思う。)帰リ道(夜中)、最寄り駅から玉川上水沿いを歩いていたらもう栗が落ちていた。今年は初めてなので一房(栗は房って言わないか)拾って帰る。もう秋だ。帰ったらF-1をやっていたので久しぶりに最後まで観て寝る。

投稿者 Ken Kitano : 01:01

2004年08月15日

8月14日 クレヨンしんちゃん

夕方まで暗室。毎度のことながら重ねて焼く作業は細かく複雑な作業の繰り返し。ミスをしないよう時々休みながらする。夕方、四国に帰っていた娘と妻が帰宅。ふたりとも真っ黒に日焼けしていた。
娘は初めてジェットコースターに乗ったこと、海で泳いだこと、姪のお姉ちゃんが洗面所でヤモリをみて驚いたことなどを矢継ぎ早に教えてくれる。かなり盛り上がった旅行だったようだ。晩ご飯を食べてテレビをつけたら映画版クレヨンしんちゃんをやっていたのでみんなで観る。96年の作品なのにストーリーはサイバーテロの話。結構面白かった。

投稿者 Ken Kitano : 00:11

2004年08月14日

8月13日 有楽町でホッピー

夕方まで暗室。夜、編集者Iさんと新しく出す予定のムックの打ち合わせのため有楽町へ。
線路沿いの居酒屋「日の基」でホッピー。「日の基」は 金曜なのに空いていた。ムックは信仰と聖地をベースに食や生活をテーマにした本になりそう。来月「おわら風の盆」に行くことになりそうだ。帰りの中央線で座ったら眠ってしまい、気がついたら八王子だった。タクシー6000円。先月からろくに仕事をしていないので痛い痛い出費。メールチェックしてテレビをつけるとオリンピックの開会式をやっていた。オリンピックは興味ない。放送が深夜早朝なので昼のAMラジオ番組に影響がなくてありがたい。
 林君が昨日からこの日記のシステムを更新しやすく変えてくれた(林君ありがとう!)。大変に便利だ。嬉しい。これからは毎日書こうと思う。なるべく。 ちなみに投稿のフォーマットになっていますが他の方は投稿できません。あしからず。いずれ表示をなくすということです。メールはcontactからどうぞ。

投稿者 Ken Kitano : 10:29

2004年08月12日

8月12日  暗室

 東川のことで何人かの方からメールを頂く。私以外にも東川ショックによる脱力モードになった人がいたようで、なぜか少しホッとした。町民参加の部分は関わる人皆さんがその必要性みたいなことを始めから確認されたほうがいいのかもしれない、と門外漢ながら思う。それと気軽に行きやすい環境をもっと作って頂きたい。(例えばエアチケットがこの時期往復6万円。だったら同じ金額でN.Y.やパリに写真を見に行く。航空会社と提携するとか、パッケージツアーを作るなど、一般の写真家やジャーナリストやギャラリストなどが行きやすくできないものか。ヒューストンは確かレンタカーやホテルがフォトフェストに来た人が割引を受けられた気がする。大都市だから出きるのかもしれないが。)それと来た人がもっと出会えて、写真の話しができる雰囲気作りをしてもらいたいと、外から行った部外者としては思った。でもそうゆう雰囲気が仮にもっとあっても言葉を交したり互いの立場を明確にするといったコミニケーションを本質的にまだ欲していない(自分も相当に苦手だが、でも文化は言葉だから・・、)ということが大きいのかもしれない。とにかく写真というキーワードがあるにも関わらずいろいろな人やものごと同士の距離感をとっても感じた。私だけだろうか?
 昼までそんなメールを書いたり保育園の旅行会の企画書&お知らせを書く。家族が旅行中で家が静かだ。夕方から暗室。6日に広島の慰霊の灯籠流しの方々を取材したフィルム現像。川べりで暗いけど灯籠の灯だけでで撮りたかったのでストロボは置いていった。ISO3200〜6400の間でかろうじて顔が写っている感じで上がった。TMAXでなくトライXだったらもっと出たかもしれない。後の祭りだ。8月6日の広島のひとの肖像はどうしても取材したかった。今回はじめて行ってみて、一日が意外なくらい静かに流れていくんだなっとまず感じた。行きの市電の超満員のホームで外国人に「no war! no Bush!」と声を張り上げていたおばさんがいたが(言われた人も困ったに違いない)、それ以外はそういった唐突な光景は目にしなかった。各地で様々行事やシンポジウムなどが行われていたようだが、特に私が夜までいた相生橋周辺の川沿いは、夕方以降、静かに亡くなった人の霊を送り、手を合わせては帰っていく光景が続いた。実行委員広報の若狭さんが「この日はお盆のお墓参りみたいなものなんです。お墓参りをするように毎年県外から広島に帰ってきて、灯籠を流市に来るんです」とおっしゃっていたのを思い出した。 広島のことはもっと勉強しなければ。

投稿者 Ken Kitano : 02:29

2004年08月11日

8月11日 今週はひとり

 一昨日から奥さんと娘が四国の実家に行ったので久々に家で一人。
メールを書いたり企画書をまとめたりして過ごす。昼はあまったご飯でチャーハン。いつもは適当に冷蔵庫に残ったものを何でも一緒に炒めてしまうのだが、今日はわざわざ焼き豚を買ってきて一人分なのに大量に切って入れる。たまごとネギと大量焼き豚だけの豪華なチャーハンを作って食べる。

投稿者 Ken Kitano : 11:15

2004年08月10日

8月10日5〜6年ぶりで「491」の写真例会

5〜6年ぶりで「491」の写真例会(合評会)に出席。場所は善福寺公園の近くのギャラリー&アトリエ遊工房。はじめて行ったけれど素晴らしい施設。内外のアーティストが数ヶ月滞在しながら制作し、展覧会をするという、アートのための宿泊兼、制作アトリエ兼、ギャラリーの複合施設。元々病院だったという建物は天井が高く骨太で作品を広げるにも最適。
http://www.youkobo.co.jp/you/top/japanese-flm.html
 この日は東京の大学(5、6校くらい?)の写真部の学生を中心に25人くらいの若い人が写真を持ち寄った。大学の写真部が今でも存続していること、ましてこんなに活気があること自体に驚く。作品はカメラをはじめて手にした人から、自分の方向が見えはじめてどんどん撮っている人まで様々。この例会はどんな写真にもひとつひとつ感想や意見を交す。いい悪いを仕分けるようなことはしない。かつて自分も学生の頃参加して貴重な体験になった。特に今回もいらしゃっていた批評家の福島辰夫先生は例え相当に未熟な眼差しの写真でも、その人が見ている、見ようとしている方向みたいなことを的確というか、すっと言葉にして下さる。多くの場合、それは撮った本人が自身では気がついていなかった内面だったりする。
 途中雑誌の撮影に出て中座。夕方からまた参加。結局夜9時頃まで写真を見ていたことになる。今の学生さんはまじめで素直だなという印象。また様々なビジュアルを見て育ってきたせいか、決まった型にはまったり影響されてなくて、その意味では自分の時よりも自由な気がした。ただ人と向き合って人を撮った写真が一人もなかったり、「いま、ここ、私」が強い感も自分の時より感じた。当然だとお思うが、「いま、ここ、わたし」からどう進むか、その加速度と方向が写真行為そのものだから、自分のこととして次に撮られる写真に期待したい。

投稿者 Ken Kitano : 02:17

2004年08月04日

8月4日 もうひとつの東川町フォトフェスタ

北海道東川町フォトフェスタに行ってきた。
東川町は1985年に「写真の町宣言」をし、以来毎年夏に東川町フォトフェスタが開催されている。今回も(分からないがたぶん毎回そうなのだろう)4つの東川写真賞(海外作家賞、国内作家賞、特別賞、新人賞)の質の高い展覧会と興味深いいくつかのシンポジウム他関連行事が開かれた。
 しかし人口7000人の町の税金を使ってやる行事に住民の姿はまったくなく、町民不在の催しに切実な焦りを感じた北海道の写真関係者から、「町民と一緒に何か作って残せないか」と声をかけられて参加した私としては、この文化事業(公共事業)をめぐって様々な人の立場と思惑を見ることになり、正直とっても疲れて帰ってきた。
 今回町の人と作った「our face project in Higasikawa」というショートムービー(映像の林君の労作)も町の人は撮影に参加した子供たちなども含めて足を運んで下さったものの、外から来た関係者は一人も見に来ないという寂しい結果に。これには関わった皆さんがっかりしていた。なんとなく「もうひとつの東川フォトフェスタ」だったなという感。たしかに宣伝不足の部分はあったようだ。あとで「知らなかったよ。言ってくれれば行ったのに」と言うゲストの方も何人かおられた。一応公式行事としてプログラムに入っていたのだが。
 実際6月に取材に行ったときに東川町を随分走り回っていろいろな人に聞いたけれど、フォトフェスタをやっていることを知らない人は余りいなかったが、実際に足を運んだ人は皆無だった。まともに市町村合併が話しあわれている町の血税を使う行事として町として「あれれ、なんだろうこの距離感は」という感じを受けた。別に一般のひとが参加して何かやることが必ずしもいいこととも思わないけどね。 
 そんな東川で唯一、海外作家賞受賞のフランス人作家のアントワーヌアガタさんと出会って話せたことは(あと岡本敏子さんとメキシコのことを少し話せたことも)私にとって数少ない嬉しい出来事だった。アガタさんの写真は酒とドラックとセックスと放浪の凄まじく深く濃密な私小説的な写真。
http://www.magnumphotos.co.jp/news/index.insom.html

 それにしてもどうなのだろう。写真関係者が多数訪れて町税で数日間写真の話を盛んにして、町民が用意してくださった宴席でも写真関係者ばかりで楽しくビールを飲み(私も飲んだけど、たくさん)、東京に帰っていく光景というものは。あまりに無邪気とうか、日本はやっぱり田舎なのか。
 また、東京から来たゲストや招待の写真関係者ご一行は一日の行事が終わるとあっとゆうまにバスで涼しい山の上の温泉地へ行ってしまうというのもどうなのだろう。以前夕張映画祭に行ったみうらじゅんさんが夕張の居酒屋で好きでない外国の監督とカウンターでかちあったということを以前「やるまん」で話していたが、そうゆう光景は東川にない。(だから地元の商店にお金も落ちない)ちなみに私を含め学生やボランティアは近隣の家にホームステイしたり学校や病院の遼に泊まっていた。完全に2分されている感じ。以前行ったヒューストンフォトフェストのようなあちこちでさかんに写真を語り合ったりするような雰囲気作りが足りないような気がした。いろんなことを工夫すればもっと開かれた、たくさんの人が自然に関わることできるのに、もったいない、とにかくそう思った。

投稿者 Ken Kitano : 11:15