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2005年02月24日

2月24日 いよいよ

 午前中写真集の打ちあわせ。だいたい全体像が見えてきた。あとは残りのテキストの直しを急がなけえればならない。あとは細かい詰めの作業になる。いよいよだ。一段落したら展覧会のことも考え始めないと。楽しみだ。今までは原稿のことでいっぱいだった。発売時期は4月後半から6月までの間になりそうだ。出すからにはたくさんの人に手に取ってもらって買ってもらえるようにしたい。とにかく見通しがついてひと安心だ。年末年始の心細さといったらなかった。
 それにしても世の中の流れは早いもので、教育指導要領とか、人口問題だとか、変化が目まぐるしいので、ほんの一月前に書いた原稿をもう直さなければならなくなってくるようなことが起きてくる。万事が早く、急げ、急げって感じである。版元を出て久しぶりに「夢眠」ほうれん草カレーを食べて帰宅。テキストデータの整理をする。
 夕方近所のミュージシャンOさん夫妻が来て話す。Oさんの次回のアルバムの予定のことなど。こちらも楽しみだ。夕方から外は雨。明日は外で車の撮影なのだ。大丈夫か・・。

投稿者 Ken Kitano : 21:57

2005年02月23日

2月22日 大山詣で

週刊朝日の巡礼の頁の撮影で神奈川の大山寺へ。日曜日に一度撮影に行ったのに雨と霧で視界5メートル位だったので今日改めて再撮。あの落語「大山詣で」の大山である。といっても実際の落語には行きと江戸に帰る場面だけで大山に登るシーンはない。僕も登るのも今回の取材が初めてだった。晴れれば江の島、三浦半島、さらに視界がよければ房総半島、伊豆大島まで見えると言われたのに一昨日は足許も見えにくいほどの視界の悪さ。うって変わって今日は、靄がかかってはいるけど江の島、三浦半島も見える。なるほど壮観な眺め。江戸から講を連ねて遊山に来るのも納得の景色だった。そういえば、ourfaceで平塚の相模川河口の漁師さんのお祭りの撮影をしたとき、漁師さんたちにも大山信仰があると聞いた。上から見渡せるように、海からも見える山というのは、大概そんな風に海の人の信仰の対象になるものだ。人と土地の結びつきというのは、実際にその地点に立ってみると瞬間にぱっと見えてくるということも多い。あ、つながっているんだなと。先月のヤマトタケルの足跡を辿る取材はまさにその連続だった。
 それにしても人が少ない。平日だからか。撮影のためには人気が欲しい。まれに登ってくる人もいるがどこか思い詰めたような参拝客には声をかけにくい。待っているとようやく登山のトレーニングを兼ねて時々登るというご夫婦がいらっしゃった。来月はネパールにトレッキングにいかれるらしい。
 現像所と原宿に納品の為に寄って帰る。家でカレーを食べて、帰りに中古CD屋で買った一青窈のアルバムを聴きながら請求書書き。写真集の原稿の直しもしたいが、あさっての打ち合わせをしてからの方がいいかなと思って、先に参考資料とご協力者をリストにまとめてみる。どちらも膨大な量だ。どこまで書いたらいいものか迷いつつひとまずリストアップ。思えば資料代に圧迫されたものだ。
 

投稿者 Ken Kitano : 09:14

2月21日 軍艦島は長崎市に

オーストラリア取材の写真を整理していたら半日かかってしまった。腰が痛くなった。早く納品してすっきりしまいたいので午後編集部へ持って行く。凄い量だ。手持ちでは何かと心配なので車で。大量のポジがようやく手元から離れて少しすっきり。帰ったら大学の写真部の時の仲間で今は中国地方に住んでいるT君から軍艦島のことでメール。数日前からデザイナーの岡村ちゃんから軍艦島に行ってみたいがと相談されていたので、卒業後も時々通っていたT君に相談していたのだった。T君によると軍艦は一昨年に三菱から高島町に譲渡され、今年高島町が長崎市に合併されて長崎市のものになるという。三菱の手を離れたいま、どの瀬渡しの船頭さんも上陸しないようお達しがでて、上陸が出来なくなったとのこと。ま、以前も上陸は禁止されていたわけだけど、なんとなく隔世の感だ。今思うと学生時代に軍艦で撮った写真は僕にとって様々なことをトライしたり考えるエクササイズの場になった。そのネガも実家の火災の時に焼け、今は数枚の大四つ切りが残るのみだ。これがいい写真なんだけど。
 伊集院光の「深夜のバカ力」を聴く。堀江社長にニッポン放送株を売ろうとするオープニングは可笑しかった。

投稿者 Ken Kitano : 08:59

2005年02月19日

2月18日 久野君

一昨日、成田に着いたら信州伊那の久野君から留守電が入っていて「房総にカエルの写真を撮りに来ているので帰りに寄るよ」とのこと。もともと清里フォトミュージアムで知りあった久野君は、以前鷹の観察本をだし(共著で)、今は田んぼの生物の取材をしていていずれ本になりそうだとのこと。田んぼのカエルの写真を撮りに西に東に走り回ってるようだ。というわけで昨夜はうちに来て「おでん&焼酎」で盛り上がって泊まって帰った。娘と久野君は鳥好きのおじさんということでウマが合うみたいだ。娘は文鳥の「ぶんちゃん」を飼っている。最近メス一羽だけなのに頻繁に卵を産んでいる。なんか「趣味」みたいな感じである。久野君は最近までヒヨドリを飼っていたそうだ。その前はカラスを飼っていたそうな。変な人である。最近はバイトもやめて、水田の生き物観察と渡り鳥の観察で走り回っている生活なのでいったいなんと肩書きをつけたらいいのか。面白いおじさんである。

投稿者 Ken Kitano : 19:25

2月12日 スティング

夕方4時半、日が少し傾いてきたけれど、夏なので陽射しはまだまだ強い。 西オーストラリアのパースから400キロ。ワイナリーが点在するマーガレットリバーと言う町にあるワイナリー、ルーウィンエステート。葡萄畑と森に囲まれた広場には6000人の観客が持参した大きなクーラーボックスにぎっしり白ワイン。のんびり芝生で、2時間以上も飲んで話して・・。日本の野外ライブみたいにかりかりしていない。荷物検査したり、場所取りでぎすぎすしたりしてない。スタッフもみんな地元のボランティアで普段葡萄畑で働いているお兄さんやお姉さんだから感じがいい。7時近くになってコンサートが始まった。今年のルーウィンコンサートはスティング。渋くてなんとも惹きつけられる声。イングリッシュマンインニューヨークなどおなじみの曲は6000人の大合唱になった。素晴らしい夕暮れ。ひとつのワイナリーが24年間もこのクラスの大物ミュージシャンのコンサートを続けていることが凄い。コンサート終わった後はまた3時間以上かけて夕食。アフターアクトの地元バンド演奏で踊る人々。お酒だけじゃだめなんだな。音楽だけでもだめ。 美味しいお酒、話す仲間、いい音楽、美味しい食事(ほんとに素晴らしかった!)。それらを一緒に楽しめることが結局最高のシアワセだと実感。そういえば沖縄の人なんか結構毎日楽しんでいる。
 それにしてもひとつのそれ程大きくないワイナリーがこんなに人々をシアワセにすることを毎年やっているというのは凄いことだ。日本の蔵元も自分の酒のことばっかり考えていないで見習ってほしい。ちなみに今年は急遽チャリティーでコンサートを一日増やしたそうだ。そのコンサートで集まったお金はスマトラ沖地震の津波救援に。その額なんと4億円。ひとつのワイナリーがである。つくづくお酒は文化。見直しましたオーストラリア。凄いです。オージーワイン万歳!

投稿者 Ken Kitano : 16:06

2005年02月07日

2月7日 表紙カバー『焦痕』藤沢周著/集英社

 午後、銀一カメラに取り寄せていたTENBAのカメラバックを取りに行く。最近は35ミリメインでも一台ブロー二を持っていったりする撮影が多く、大きめのカメラバックが欲しかったのだが、我慢して小さめのバックをずっと使っていた。しかし今週久々に海外出張が入ったのを期に思い切って大きいのを買うことにした。やっぱりTENBAは使いやすそうだ。それにしても売り場に気になるカメラバックがたくさんあって、小さめ大きめいろいろ欲しくなってしまった。でも今はひとつ買い替えるのがやっとだ。ラボに寄って出張のためのフィルムを大量に買い込む。海外撮影の時は持っていくフィルムの量でいつも悩む。こんなに使うかな?大量に余ったらいやだな、でも足りなくなるのはもっと困る。そんなことを考えつつ、やっぱり大量になったしまった。フィルムが多いと空港のセキュリティーも気を使うんだよな。
 国分寺の書店に寄ると私の写真がカバーに使われている芥川賞作家の藤沢周さんの新刊『焦痕』(集英社)が店頭に並んでいた。たしか今日発売のはず。鈴木一誌さんによる装丁で、表紙をめくった中扉にも写真がレイアウトされていた。書店で見かけたら是非手に取ってめくってみて下さい。巻末を見ると写真クレジットの他に(シリーズ「溶游する都市」より)と入れて頂いてあった。鈴木さんの細かいご配慮に感謝。ありがたい。嬉しい。出張中読もう。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/408774745X/qid%3D1107784674/249-7567347-2564337

投稿者 Ken Kitano : 22:59

2005年02月06日

2月5日 美容室より床屋

 昨夜、娘とお風呂に入っていて、話していたら、急に「夜のドライブに行こう!」ということになった。晩ご飯の後、娘のお気に入りのスピッツのCDを持って三人で出発。CDを聞きながら夜の首都高を走る。東京タワーやお台場の観覧車の夜景にスピッツの曲が妙に沁みる。娘は、曲名忘れたけど切ない感じの曲の時に「この歌懐かしいカンジがするね」と言っていたけど、5歳で”懐かしい”ってどうゆうこと?なんか感じたどろうね。雰囲気はわかるよ。三人ともご機嫌で環状線を一周して帰ってきた。ETC割引なので首都高代350円で結構楽しめた。また行こう。
 それで今朝は寝坊した。近所の現代美術作家さっちゃんが小さなギャラリーにしている自宅で、成り行きで急遽うちの奥さんが展覧会をやることになり、昼過ぎに行く。さっちゃんとうちの奥さんが数日前からふたりでほんとに簡単に準備して、始めてしまった。でも全然宣伝してないからやっぱり来場者は少なかったようだ。自分もそうだけど突発的に何かやるのが好きな人が周りに多い。
 さっちゃんちの前が床屋さんだたのでちょうどいいので髪を切ることにした。いつもは美容室に行っているのだけど、美容室は髪を切りながら「今日はお仕事は休みですか?」と聞かれると困るのだ。話題がないからって「お仕事は何を?」などと聞かないで欲しい。「写真とか文章を・・」みたいなことを言うと俄然話しがややこしくなる。かといって「医者です」とか言ってもすぐバレるし。その度に美容室を変えていたら、とうとう周りに行く美容室が無くなってきた。床屋は「床屋さん」な感じの髪形になるのがイヤなので敬遠していたけど、今日入った店は細かく希望をいろいろ聞いてくれて感じがよかった。話題も近所の話で終始できそうだ。何よりそれがいい。次もここでいいかも。蒸しタオルは久しぶりに気持ち良かったし。

投稿者 Ken Kitano : 00:55

2月4日 d/sign

 今週は鈴木一誌さんと戸田ツトムさんが責任編集をされている『d/sign』という雑誌の編集の方にお会いする機会があった。「d/sign」はデザインを軸に文学から建築、哲学、歴史‥、幅広い分野に及ぶ論考を納めた内容の深い雑誌。(学生時代の頃などは「d/sign」の他にも「インターコミケーション」とか「コラボ」(だっけ?)、もっと前は工作舎の「遊」とか、文芸誌以外にも様々なジャンルに渡って論考を納めた雑誌があったけど、今はそうゆう雑誌は少なくなった。一般誌はPR会社や制作会社の宣伝部からの情報で企画をたて、取材をアテンドしてもらって作る誌面が増えた。映画でもイベントでも舞台でも。取材はしやすくなるが、宣伝の延長だから批評性はなくなる。)で、頂いた「d/sign」昨年秋号を帰ってから読む。目を引く表紙の写真は、金属なのかコンクリートなのか、緩やかな放物線をいくつも束ねて立体を組み上げたような無機的な建築物の写真。それが九州新幹線の「新水俣駅」だと知ってまず驚いた。あの、水俣である。なんだか、”痛い”印象。
 記事の中に『ポスト「日本戦後史」にむけて-1972年的心性のデザイン』という対談があった。連合赤軍、オウムを軸に戦後日本の精神史をめぐる対談だった。読んでいていろいろ関係ないことを思い出してしまった。学生のころ、ちょうど「溶游する都市」を撮り始めた89年〜90年頃、僕はなんだかこのまま90年代に入っちゃっていいの?って気分だった。自分がたまたま物心付いて周囲を見つめたのが80年代だったからかもしれないけど、うまく言えないけど、あのどろっといろんなものをなし崩し的に保留し続けた80年代をきちんと”総括”みたいなことをしないで90年代にはいってゆく感じがマズイんじゃないのって思っていた。だってそのころ雑誌は70年代とか60年代の特集をさかんにいろんな分野でやっていた。そんなことしている場合じゃないよって毎日焦りながら東京の風景を撮り歩きながら思ってたことを2000年代の今思い出す。読み終わった後、対談にもでてきた加藤典洋の「敗戦後論」を随分前から読みかけだったのを思い出して、本棚から捜しだして読み始める。そんなことだから、また原稿が進まない。

投稿者 Ken Kitano : 00:09