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2005年07月26日

7月26日 台風

 台風が来ている。朝、娘は「嵐ってなんか緊張するなあ」と言ってた。今朝は仕事で朝10時に銀座集合だった。道は大渋滞。かなり早めに家を出たのに混んでいて着いたのはぎりぎりだった。撮影の後早めに帰宅してシチューを作る。(そういえば昨日はカレーだった。なぜか”煮込みたい”今日この頃なのだ。圧力鍋をもらったことが大きいかも。)
 大阪のTさんから展覧会を観てきて下さったと感想のメールが入っていた。もうひとつ、雲の上の大先輩のMさんから本受け取ったかわりにご自身のご著書と感想のメッセージが届く。(読んで軽く泣きそうになるくらいありがたい言葉だった。)ここのところ本は出たものの、何とも手ごたえがなくてちゅうぶらりんな感じだった。知人も「新聞で見た」と連絡してきてくれるのだが、感想などを送ってくれる人は少ない。難解というか取っつきにくい本なのかと、結構後ろ向きになったりしていたが、続けて感想を頂き少し気が軽くなったというのが正直なところ。 写真を撮る人は絶えず「分かって欲しい、知って欲しい」という気持ちと「分かってたまるか、というか簡単に分かったなんて言ってくれるな」という思いがせめぎ合っているものだからしょうがない。厄介な人種である。

 幾つかの紹介記事や、反応を受けるて最近思うのだが、写真や本を見る人、読む人に「段階(階段)がある」のようなものがあるのを感じる。どうゆう階段かというと、階段の一段目には「不思議だ」とか「どうやって撮ったのか」とか「似ている、似ていない」的なこと、あるいはよくある「平均、合成」的な話。そうゆう話が一段落して次に「どう気持ち悪いのか」とか「どう怖いか」あるいは「なぜ美しいのか」などの話があって、三段目以降は見る人それぞれに、例えば仏教に親しんでいる人なら般若心経に関連して語るとか、本を読んでいる人だったらユングやサルトル(集団的深層心理など)に結びつけてとか、芝居を観ている人はイッセー尾形さんの舞台に関連づけて語るとか。人によっては「死みたいなものを感じるのはなぜか」とか、”個性”、グローバリズムの話など・・。ある編集者は「この59のセレクションがとっても面白い」という話から深い話になって行った。ところが、その人から例えば書籍担当の人のところに本が行くと、書籍の方はまた「階段の一段目」になる。そうゆう場合の書評はやっぱり「どうゆう写真か?」的な内容で文字数が尽きてしまうようだ。とはいえ関心をもって取り上げてもらえるだけでもありがたいのだが、せっかくだからその先(階段の3段目、4段目あたり)を書いて欲しいのに、もったいないなあと思ってしまう。時間をかけて様々な人からいろいろな言説が積み重なってゆくのを待つしかないかもしれない。またそうゆう長いスパンで、手の取って何か言ってもらえるような写真集でなければ力がないということか。中には階段を一段、二段階段を飛ばして駆け上がっていく人もいる。これは写真の経験値とは無縁のようだ。(一方で階段の一段目で「分かったよ」と引き返してしまうひともいる。) もっとも自分も6年間、少しずつ自分と写真との対話の階段を進んできたわけで、なんでも見て一発で「分かる、分からない」、「いい、悪い」というのではないだろう。 写真を前に思いがけずいきなり本質的な話になる人がいる。写真やアートの経験値とは関係ないようだ。あと自分のこととして『our face』を見る人とそうでない人もいるようだ。『our face』に限らず世の中のことに対しての「自分のこととして感」の個人差というのはかなりあると最近感じる。想像力と客観性の問題か。
 高野山のあるお寺さんが「こうゆうものの見方はとても仏教的だ」といって先日まとまった冊数を注文して下さった。昔から般若心経と関連づけて見られるということが、僕の写真は時々ある。自分も小さなひとつの粒子というところから世界を見る。「一と全」をひとつに見てゆくような考え方には親しみを覚える。
 ・・などとシチューを煮込んでいる間に書いたところで、これから銭湯に行くことにする。

投稿者 Ken Kitano : 2005年07月26日 21:20