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2005年09月12日

9月12日 ハーフトーンを前に思考停止するメディアと人々

 週末に写真集の紹介記事が掲載された週間誌が送られてきた。僕からは本を送った記憶がないので版元が送ったか、担当者が興味を見つけて持ってくれたのか?いずれにしてもその雑誌は予期してなかったので意外であり、少し嬉しかった。
 一ページの半分弱のスペースで写真も入っている。書評というよりはあくまで紹介記事だった。こうして媒体で取り上げていただくことが広く認知して頂くきっかけになるし、まずは露出して知って頂くためにもありがたいことである。ただ残念なのはこうした紹介記事の多くは写真の説明で終わってしまう。ややこしい写真なので説明なしには話題にならないからいたしかたないのであるが。でも本来写真を見るのに方法や被写体のことは後回しでいいのである。場合によってはなくてもいいのである。それにこれは字数の問題ではないようである。短い字数の紹介記事でも、例えばダヴィンチなどはわずか2行程度の記事にも、書き手の主観や解釈が折り込まれていたりする。媒体の性格にもよるのだろうが。少しだけ思うのは写真集だからだろうかということ。雑誌の同じ頁の紹介記事でも隣の小説を紹介する記事は随分と踏み込んで主観を交えて書かれていたりするのだ。たしかに小説やエッセイ、あるいは映画などより写真を主観的に見て語るのは一般的でない。そもそも写真をやっている人でなければ、写真について語る必然を多くの人は感じない。訓練の問題でもあるだろう。写真を説明することで語ったことになってしまうのは困ったことである。『our face』で言うと、この写真群の持つ不可解さには触れても、その不可解さ、茫漠とした様から先を言葉にするのは難しいようである。繰り返すけれど、取り上げてくれるだけでもありがたいのだが。
 昨夜、NHK BS2「週間ブックビュー」で『our face』が取り上げられていた。選挙速報の裏番組という微妙なタイミングに、よりによって書評番組を観ている全国の奇特な人々に親しみを覚える。放送ではグラフィックデザイナーの鈴木一誌さんが、『our face』の写真のまさに〈不可解さ〉から一歩踏み込んで、そこから見えてくることを簡潔に言葉にして語っておられた。「常に他者と違う存在であることを強要されているような現代の私たちを、そうでなくてもいいのだと思えてくるようなある種の癒し的にも読み取れる本」というような言葉で感想を着地されていた。その後他のコメンテーターと司会の長田渚さんらが順番に感想を語っておられた。「自分が何者か」「普段我々が見ているものというのは一体何なのかを疑ってしまう」という意味のことをおっしゃった方もいらした。その辺の会話はまさに〈不可解さ〉を自身に引き寄せて初めて見えてくる言葉のように思える。(ちなみに画面の端に「今日のお薦め」の三冊が映っていたのだが、こうゆう時、大きい判型の本は目立つからトクである。)
 なぜこうゆうことを考えたかというと、今回の選挙である。「解りやすさ」というのは僕達があるところ、長く求めてきたことではある。政局にしても利権にしても不透明で分かりにくいことへのストレスを我々は抱えていた。一方写真で言うとはっきりした白黒、カラフルでエッジの効いたイメージは反応しやすいし言葉にしやすい。今回の選挙を見ていても、大切なことは郵政のことだけではないのに、小泉首相 が解りやすい「二者択一選挙」へと持って行ったことで、人々が大きく反応するような現象。なんとなく感じることがある。ぼんやりしたハーフトーンを前に人は(そしてメディアも)思考停止してしまうのだなと。茫漠とした「ハーフトーンの状況」を見渡す視力が我々は確実に落ちていると思う。強弱があるとものごとは見やすいし見たような気になる。(実際コントラストが強いほど人間は視覚情報を脳に伝達する速度は速いそうだ。)しかし強く、濃い、特別な存在を注視することで、弱く曖昧な(でも大切なもの)を見失ってしまう危険を感じる。郵政民営化自体は僕は指示するし、今回の解散も納得ができたのだが、郵政改革か否かという焦点の単純化の向こうに、それ以外を見えなくするような与党の作戦とそれに同調する有権者の単純さに危惧を覚える。郵政改革への支持はしたけど靖国参拝や自衛隊のイラク派遣任期延長、憲法改正などのオプションはそこには含まないハズ。それらの審議の度に今回みたいに毎回解散選挙をしてくれれば解りやすいけど、そんな訳には行かないよな。今後、成り行き的に、「国民に支持されたからねオレたち」的に、細かいことを端折って大事なことが速いスピードでおし進められてしまいそうな気がしてならない。
 繰り返すけど、大切なことは二者択一的な二極論の中に消えてしまう。根気と経験がいるけど、眼をこらして、曖昧なグラデーションの中に変化を見つけるような眼差しが大事だと思う。こじつける訳ではないが、あれだけ取り上げられているのに『our face』の「不可解さ」から先を言葉にしにくいことの背景にはそうゆうものがあるように思いました。「ハーフトーンの壁」みたいなものをそこここに感じる今日この頃なのだ。(以前、ほぼ全編ハーフトーンの映像で描かれた「ユリシーズの瞳」という映画があった。あれはいい映画だった。)
 
 「週間ブックレビュー」、「すばる」などの告知をメールでしたほうがよいと何人かの人に言われた。そうゆうものですか、と取材で関わった人などに週末BCCでお知らせを送った。本当は一人ひとりにその人を思い出しつつ文面を考えたい。一斉送信というのは好きではないけど仕方ない。あの人にも、この人にもと足しているうちに80人くらいになってしまった。(迷惑メールだったらすみません)残暑見舞いとお知らせの文面の他に、本が出るまで応援してくれた人にその後経過を報告しなくてはと付け足した文章を下に添える。
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「見知らぬ他者を自分のこととしてイメージする」ことへの期待に端を発したour fcaeの旅は6年に及びました。
 世界が均質になってゆく。均質になっているのは事実ですが、実際に世界の表面をいろいろ訪ねてみると、それでも世界は実に多様で、具体的な質感を伴っている(当たり前ですが)。実際そう見えてしまうことの原因の半分以上は、我々の想像力が均質にしか想像できなくなってきていることによるのではないかと、旅のさ中で思いました。

 「個性こそが大事」とゆうようなことが言われます。もちろん個性は普通に大事です。しかし人と違うこと自体はいわば客観的な結果でしかない。過剰な「個性礼賛」は実は世界を均質にしてゆくという逆説をはらんでいます。強く、濃い、特別な存在を注視することで、弱く曖昧な(でも大切なもの)を見失ってしまう危険を感じます。個性礼賛というある意味の差別化は(グローバル化を推し進める隠れた血流としてあまねく世界に循環しながら)、実は益々世界を均質にします。
 『our face』の写真をを見て「どうして個性的な人の写真を撮らないの?」と言う人はインテリの人が多いです。漁師や畑の人は「個性」なんて言いません。半分大きな対象(自然とか宗教とか)に自分を預けてますからでしょうか。そうゆう人は『our face』の肖像群をどこか自分のこととして向き合っているように感じます。「違う」という価値は錯覚を含む。「個性礼賛」は「在る」ことや存在することの「実感」そのものを希求することの難しさの代用品という気がします。

 『our face』を「平均」とか「合成」という言葉で簡単に片づけられることがまだまだ多いです。しかし作者としては、時々出会う、この無数の他者の肖像を自分の鏡として見つめるような感性と言葉に期待します。

 くどくてすみません。
 台風、残暑、地震が連続して訪れる最近ですが、どうぞご自愛下さい。


投稿者 Ken Kitano : 2005年09月12日 09:21