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2005年09月27日

9月27日 湘南に行ったのに海も見ず

 朝6時半に自宅を出て湘南へ。SPA!「今週の顔」の撮影のために気鋭の書道家Tさん宅へ。撮影はあっとゆうまに終了。Tさんの理系ご出身の経歴だとか、「戦うこと」についてとか、お話を聞いていて勝手に共感を覚えることがいくつかあり、じっくり話を聞きたかったのだが、午後の撮影の為に、少しだけ雑談をさせてもらって、取材途中で失礼して一人都心へ向かう。午後は代々木公園で某誌の車の撮影。初めての特集頁の最初の撮影なのに、事前打ちあわせなし、その上担当編集の立ち会いなし。「好きに撮っていい」らしいが、そうゆうのってむしろ不自由というか、やりにくい。かなり不安。
 
 今日は車を運転する時間が長かったので、先日清里の取材で話したことも含め、本の反響のことを反芻する。つまるところ、また「個性」の話。「個性」という言葉を崇めて使えば使うほど、世界は(人間が)均質になってゆく、ということ。まだ自分でもうまくいえないのだが、またこのことを「分かる」人たちと分からない人達について。写真集『our face』でいうと、ぱっとみてすぐに興味を持って、比較的深いところで見てくれる人というのはそうゆうひとだろうか。自分で写真を撮っている写真家は年齢を問わず、あるところ「分かって」くれるひとが多い。(別に分かってくれなくてもいいのだが。また方法論みたいなことや写真という表現そのものに”ノレ”なくて入って来られない人も、もちろん多い。)あと、農業、漁業など自然に接している方々も割合入ってきて頂ける。(インテリやアートに近い人はなかなか分からないことが多い。リクツじゃないのだ、写真は。)写真家も”時間と光”という自然のベクトルに常にコミットしている人種。そうゆう自然と向き合う経験をしている人々は、個人が(自分が)、自分を超えた大きな「世界の中の一部分であるというリアリティー」に触れた経験がある人々なのではないか、と思う。大きな世界の中の「部分である」という確かさ、リアリティーを、近代に入って「発明」された「個人」という概念に結びつけて意識することはできないものか。それか絶えず無意識の助けが必要か?僕なんかが考えても仕方ないことなのだが、「個」が強者と弱者の序列で表現されたり、「特別なもの捜し」的に求められることが、とことんありとあらゆる場面にまで浸透してゆく今、そんなことを思うのだ。

 業務連絡。ラジオを聞きのがした今井さん、松村さん、伊豆野さん、梅津さん、こんど録音したMDをお貸ししますね。
 

 

投稿者 Ken Kitano : 2005年09月27日 21:31