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2005年11月06日

11月4日 またまた「個性」もんだい

 先日、清里フォトアートミュージアムの会報の取材を受けた。校正が送られてきたので読みながら改めて考えた。クドイけど、例の「個性とは・・」の件。今度は何かというと写真集に添えた「個性とは幻想である」という言葉がまたまた気になってる。ふたつのことが気になっている。
 ひとつは「・・は幻想である」という物言いは、それ自体カッコワルイというか、何か言っているようで、実は何もいっていない物言いだということ。普通はこのように、多くの人に支持されているような言説なりものごとを否定した後には、それに変わるものごとや方法論を提示しないと片手落ちである。写真集の中身でそれ(幻想であること)に変わる考え方なりものごとを提示しているような気もするし、そこへの導入のチョイとした挑発のコピーのつもりだ。でもこの言葉だけだと「・・は間違いだ」とか「・・っておかしい」とだけ言っているだけみたいで頭が悪い感じがする。気になるのは、皆さんが大事にしている・・って実はそれほどものでもないんではないですか?みたいなことを言うときは、どこかへりくだってパンツを下ろして笑いを取るとかしなくていいのか、というニュアンスのことだ。もうひとつは「幻想」ってそんなに悪いことなのか?ということ。「それは幻想だよ」と否定的に使いますけど、幻想を持っていることで楽になれたり、幻想をもっている自分が楽しいということは多々ある。何があるだろう、例えばワタシ宮崎アニメはわりとどれも好きなのだけど、「ナウシカ」にしても「ラピュタ」や初期の「パンダコパンダ」にしても、主人子は超人的に強くて、それでいて可愛らしい小さい女の子だ。その子が超人的な力を発揮して(簡単に言うと)いろいろな問題を救うわけだけど、現実的にはあんなに強くて犠牲的でかわいい女の子というのはいないわけで、アメリカ映画のマッチョなヒーローと対極的なヒロイン像かもしれない。(詳しくは知らないけど、たぶん。)別にロリコン趣味でなくてもこの手の「超人的な少女幻想」みたいのに浸かってみると、それはそれで広い世界や物語が見えてくるわけで、そうゆう「幻想」って、単純に悪くない。そうゆうことってたくさんある。依存しない程度にいろんな幻想を持っていたほうがいいとさえいえるのではないか。
 要は「個性」という言葉と、ある程度、それは幻想である」ことを意識しつつ付き合っていけばいいのだ。いろいろ書いたけど簡単に「個性という言葉」を否定するだけで何か言った感じになっちゃいけないと、自分に突っ込んでいるわけである。個性という言葉を礼賛する傾向(特に団塊の世代の人が多い)で嫌なのは、「他人とは違うこと」が「いいこと」であるということが、本質的なことを探すことを停滞させたりするし、その結果ますます社会が均質になるからだ。とはいえ、ものを商品を作ったり、仕事をしたり、日常の会話を交わすにも、「人と違うことを」というのはある程度意識していないと成り立たない。それは空気にみたいに当たり前のことで、とりたてて「個性が一番」と重きを置くたぐいのことではないと思う。(というかそのことからは何も生まれない。)じゃ、その空気みたいに普通に表いればいい「個性」という言葉を一言でなんと言えばよかったか。そこでふいに以前、木村万里さんから頂いたメールにあった言葉を思い出す。そう、写真集の冒頭にこう書けばよかった。-----たかが個性----- と。
今読んでいる三浦展さんの「下流社会」(光文社新書)は団塊の世代が手に入れた「自分らしく生きる」という「青い鳥」を、二極化する社会の中で、どう付き合えばいいのかということが提示されている。また団塊ジュニアの世代の「自分らしさ」感の重要度の詳細な分析も実に興味深い。リアルだ。

投稿者 Ken Kitano : 2005年11月06日 10:44