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2009年08月25日
写真集テキスト
「溶游する都市」のプリント作業を中断して、写真集のためのテキスト・・・が書けない。あれほど熱望したのに。いざ写真集の作業が進行してテキストを書く段になったらまるで無風状態。言葉のさざ波ひとつたたない。翻訳のタイムリミットを考えるともう上がっていなければならない。
家にいてもなんにも出てこないので夕方また世田谷美術館へ行った。「メキシコ」展。内覧会の日は時間がなくて見なかった二階の利根山光人がよかった。リベラもフリーダもよかったけど、さすがに何度も見ているから普通にイイネという感じ。また帰って悶々。
で、時間がないというのにぼんやり積んであった本をつらつら読む。檀一雄の「小説 太宰治」と見田宗介の「宮沢賢治 存在の祭りの中へ」。「小説太宰治」は面白くてそのまま読了してしまった。(だめじゃん。)どのくだりも映像が浮かぶ。表情や声までも。太宰と山岸外史の荻窪界隈は、針生一郎さんの「修羅の画家 阿部合成」という本にも度々登場する。阿部合成は太宰と同郷の画家で、才能を抱えて激しく彷徨い、晩年は民衆画に惹かれてメキシコに行った。世田谷美術館メキシコ美術展の図録の加藤薫先生のテキストにもその名前があった。作品が兵庫県美に収蔵されていたと記憶している。民衆画は好きじゃないけれど一度見てみたい。山岸外史については福島辰夫先生からもお聞きしたことがある。福島先生は長く中央線界隈にお住まいなので、接点がおありだったのか。
「宮沢賢治 存在の〜」は環状線のように終わるとまた最初から読みたくなる。
20代のはじめ「溶游する都市」を撮り始めた頃、自分の中に世界があるというリアリティーと、世界の中に自分が存在しているリアリティーを同時に(あるいはせめて交互に行き来するように)持ちたいと願った。いくらか漠然と衝動的な思いだったけれど、それはそれでとても切実だった。その時はまだ「極と極」のようだった2つの世界の有り様を見つめる構図は、いまは運動体のように連続的に、時には同時にある。
いつか物語的なことに写真作品で取り組んでみたいと思っている。その時は「ドュアンマイケルズと宮沢賢治について」考えてみたい、などと(まだ影も形もないのに、)ぼんやり思う。(妄想)。
世界を見る眼差しは、内部から外を見ることと同時に外部から内を見る眼差しでなければならない。写真はそうした存在の(時・空)に相応しい。
飲みに行きたいよ。
台北アートフェア 28日〜9月1日
http://www.art-taipei.com/
東京フォト 9月4日〜6日
http://www.tokyophoto.org/
上海アートフェア 9月9日〜13日
http://www4.cnarts.net/sartfair/2009/index.asp
パリフォト
http://www.parisphoto.fr/#
投稿者 Ken Kitano : 10:55
2009年08月13日
個展 one day 終了しました。
MEMでの個展終了しました。
たくさんの方にお運びいただいたようでありがとうございました。丁寧な感想もいくつか頂いた。
東京からわざわざお越し頂いた方もいらしたようで、お礼申し上げます。
新作を個展にまとめることができてよかった。
one dayは2007年からのシリーズだが、90年代の「溶游する都市」の延長にある。2000年代に入ってもランドスケープのアプローチを試みていたが形になったのがone dayで、気持ちの上ではずっと続いている。
ポートレイトのourfaceとランドスケープのoneday、進行中の2つの作品が両軸のようになって、しっくりしてきた。人や時間をこうして「集積」としてイメージ化してゆくことは、端的に言うと、世界を「等価」にとらえ直すとこと。このような「等価」な眼差しは、例えばグローバル化による「均質さ」を越えるための手だてになるかもしれない、と思っている。
さて、今後の予定は、
11月のパリフォトまでに「溶游する都市」の写真集を仕上げることと流通を構築しなければならない。9月の東京フォトまでには詳細が決まるので、いずれ詳しくお知らせします。昨年のパリ以降、そもそも写真集って何か?みたいな根本的なことから考えました。これまで自分が体験して来た写真集との出会いと、いまある(主に日本の)写真集の現状、そしてパリで見たこと。
考えて考えて、何人かの心ある方と話して話して・・。いま、ようやくある方向に着地しつつある。写真集でなければならないこと。例えば100年後も残って数世代の先の人とのイメージの回路となるような本に。
自分一人ではできなかった。人とのすばらしい出会いがあって、いい形に結実しそうな感じである。
「溶游する都市」は来年1月に写真集とあわせて新しいプリントで東京で個展を予定しています。
その前にパリでもプレゼンするので目下プリントの日々。90年代当時は、作品となるかどうかも発表できるあてもなく、取り憑かれるたように撮っていたなつかしい写真。それをいま、大きい16×20の印画紙に連日焼く作業は、心楽しいものがある。
(our faceではない普通のプリントってラクだと思いました。中古でアーカバイルウォッシャーを購入したので水洗が快適になった。)
それと別に念願だったロール紙に焼いたラージサイズもこちらはフォトグラファーズラボラトリーの斉藤さんの手で3点制作した。これの一部は個展前にいくつかあるアートフェアでごらん頂ける予定だ。
今後のアートフェアの予定。
いずれもMEMより。東京は僕も行きます。
ART OSAKA 8月21〜23日で
http://www.artosaka.jp/
台北アートフェア 28日〜9月1日
http://www.art-taipei.com/
東京フォト 9月4日〜6日
http://www.tokyophoto.org/
上海アートフェア 9月9日〜13日
http://www4.cnarts.net/sartfair/2009/index.asp
パリフォト
http://www.parisphoto.fr/#
投稿者 Ken Kitano : 02:22
2009年08月02日
「現代アメリカ写真を読む」 日高優著 青弓社
個展が無事スタートしたので夏休みをとった。飛行機のマイルを使って沖縄に行った。
本部半島の大好きな備瀬集落で過ごした。撮影抜きの旅行は久しぶり。娘と日蝕も見た。部分日蝕だから、欠けても闇にならない。となりで見ていた地元のご老人が70年前に石垣島でみた皆既日蝕の話をしてくれた。突然の闇と星空を鮮明に覚えているそうだ。いつか皆既日蝕を、どうしても見たくなった。
民宿で日高優著「現代アメリカ写真を読む」(青弓社)を読んだ。
〈「写真」と「アメリカ」との出会いが、デモクラシーを人々の生きさせてきた。〉という印象的な一文から始まる本書は、写真とデモクラシー徹底的に考察した本。デモクラシーとは(僕の関心に引きつけて言うと近代の)「個人」の有り様そのものについての本と言っていいと思う。僕のテーマにもぴったりで刺激的な本でした。冒頭から緊張感を感じながら一気に読んだ。
http://www.amazon.co.jp/現代アメリカ写真を読む―デモクラシーの眺望-写真叢書-日高-優/dp/4787272691/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1249189213&sr=1-1
まったく個人とは何なのだろう。
例えばドゥアンマイケルスについて書かれた章の中の「流れ去るものとしての心象風景」のなかの一節。
〈写真の決定性や特権的瞬間の迫真性に対する不審の時代に。この写真家は挫折させるために夢を紡ぎ、不可能な出来事への接近を飽かずに繰り返す。〉とある。主体のあり方を疑うところから始める、ということが僕を含め今日の写真の明確な方向性(というか始点)のひとつだと思う。その最初機の飛翔としてのマイケルスがある。
さらに〈主体の多数性を起点とした多様な関係性の下に結ばれてゆく風景の広がりを見ることもできる。潜在する他者の始点を探り、その新たな風景を見、他者の感覚を掬うことがデモクラシーの地場を作る。p185〉〈ドゥアンマイケルスの人工風景は、われわれの他者への感度を上げる。それらが消え去って行くがために、他者への、夢への、生命への、死者への感度が上がる。p186〉
今を生きる手だてとして、また写真が写真としてあり続けるために期待する手だてとして、私の中の他者を、他者の中の自己を見つめること、そしてその往還を続けることの中で世界をみることについて、以前日高さんと話したことがある。「世界を自分のことのように感じてしまう」心のありように、等しく普遍的で写真の持つ根源的な力を期待して写真をしてきた僕にとって、日高さんのテキストと出会えたことは幸いである。
自分の話で恐縮だけれど・・、僕は人の存在に興味がある。
自己とあらゆる他者が存在していること、そのことにしか興味がないかもしれない。(でもそのことだけで充分だろう。)僕の取り組んでいる作品は個の集積である垂直軸の群像写真を水平に連ねる、水平と垂直を同時に駆動させるとても矛盾を含んだまなざしの提案だ。端的に言うと「等価」に人の存在をとらえ直す、という行為が含まれている。(自己も他者も)集積として見たとき、自己を見ることと他者を見ることは初めて等価になる。そして世界を等価に見る視座をもてたなら、それは例えば〈均質さ〉を越える手だてになるかもしれない、などと期待する。そんなことを日頃から言ってみるのだけど、「あらゆる他者」などと言ってみたところでいつも多少の虚しさを感じてしまう。他者という言葉には、立場も世代も違うあらゆる人々、極端にいえば死者や私や私の子供を殺そうとする人まで、想像しうる限りの人を想像して初めて言葉になりえる「他者」であり、そうした人々の存在すべてを肯定的に想像すること(これはなかなか難しいのですか)の中でしか、「自己」という言葉も同様に言葉にならないような気がいつもする。そしていつもその想像の範囲の狭さに自分で辟易しながら、口はばったくも毎度「自己とか他者」とかいう言葉を使うのだ。そのような虚しさを抱きながら他者を自己に、自己に他者をみる、その往還を続けることのなかでしか、(たとえ一瞬の幻想でも)世界は見えない気がする。そんなことを考えたとき、最初は自分とずいぶん遠いと思っていたアメリカの写真家たちの、いつまでも答えのない格闘の連なりを、(不遜だけど)どこか自分のことのように感じながら読んだ。
投稿者 Ken Kitano : 04:54