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2010年01月31日

アチェ撮影。もろもろ雑記。

来週、昨年に続いて再びインドネシアに撮影に行く。
今回はインドネシア北端のアチェに行く予定だ。アチェは5年前の地震、とりわけ津波の被災地で17万人の方が亡くなった。

昨年のインドネシア取材中、スマトラで大きな地震があった。いまこうしている間にもすぐ近くでたくさんの方が傷ついたり、命を落としている。帰りの飛行機のなかでぼんやり思った。5年前の津波で「亡くなった方がいる」、「アチェで亡くなった方の存在」というイメージを形に残せないものか、と思った。
(そうゆうことが可能かどうかわからないが、)5年前の被災地を訪ね、ご遺族の方に会い、遺影を私のカメラで複写して歩く。それをかえってからourfaceの作品にして、私の作り続けているひとのイメージの連なりに置く、ということはできないか、と思ったのだ。自宅やお財布にいれている写真、携帯の待ち受けをみせてもらって、その場で写真を撮る、という作業だ。想像もつかないけれど。

死者をイメージすることは僕の仕事のなかで大切な要素。具体的にアチェという場所と結びついてきて、形にしたい、と思った。僕の仕事はドキュメンタリーではなく、人の存在をどうやってイメージするか、の1点だ。

僕はポートレイトとランドスケープの両方をやる写真家だ。ランドスケープとポートレイト、どちらも写真の王道だけれど、不思議なことに両方の作品を作っている作家は少ない。日本だと北島敬三さんくらいだろうか?

僕の中でポートレイトとランドスケープがどう繋がっていて、互いに関係しあっているか、いずれきちんと考えたいと思っている。たぶんこれは重要なテーマ。
ちゃんと話すと長いけど、端的に言うと「死」と向き合う行為として両方がありえていると思う。僕は自分とあらゆる人の存在に興味があります。(そこにしか興味がないといえるくらい。)
90年代、佐内正史さんや川内倫子さんといった作家に代表されるように、すぐ目の前の現実、「いま、ここ、わたし」的なことを瞬発力を持ってイメージ化する、というところからすぐれた写真家が生まれましたし、90年代の日本の写真のメインストリームになっていったと思う。そしてそうゆう写真の見方が写真を見たり評価する基盤になった。若い人もそうゆう写真のあり方にとても反応した。でも僕の写真はそうゆう見方からは恐らく見えてこない。(澤田さんの作品もそのような方向から見る人がいるフシがありますが、僕からすると入り口が違うよ、という気がする。)

僕にとって「いま」や「ここ」やましてや僕自身ほど遠いものはない。まるで彼方だ。僕は隣の誰かがそこにいることが肯定できてはじめて、もしかしたら自分もいるのかもしれない、と思えるひねくれた人間だ。目の前の誰か、その先の誰か、そんなふうに常に他者に会って存在を確認し続けることの中で、やっと時々自分の存在やいまやここが感じられる。そのような他者や彼方を経由して世界と自分がありえるような、迂回するような回路。これが僕の写真のわかりにくさのひとつだと思っている。分からなくてもいいけどね。

個人と世界の接点だけを問題にするのではなく、他者や彼方を経由して世界と接続できる個人のありかたもきっとあると思うのです。そうした迂回的なというか補助線を引くような世界と自己の有り様についても、僕はこの仕事(our face)の中で考えて行きたいと思っている。もしそのようなことが普通に受け入れられる世の中になったら、「個人」はもっと生きやすくなるのではないか。

そんなわけで、常に僕は「あらゆる他者」へ向かうのだ。(僕にとって「他者」という言葉は厳粛な言葉。そして僕はこの十字架のような言葉と一生つきあって行く。)「あらゆる他者」のなかには遠くに住む人や私と敵対する人、過去の人すなわち死者も含みます。死者もわたしのとって切実な他者なのだ。
そうゆうわけで、5年を迎えたインドネシア地震被災地を訪ねて遺影を撮影してour faceにすることにした。そうした死者の存在のイメージ化も僕には大切なことなのです。(僕からすると、あらゆるポートレイトはすべての人にとっての自画像でありデスマスクだ。)

ランドスケープも同様。onedayを最初に撮影したのは07年の3月隅田川。撮影を始めてしばらくは露出やハレーション、道路の振動のことなど、いろんな要素が気になって時間が過ぎる。やがて、午後になって太陽の一夜水面の表情が変わったことに気がついて、少し気持ちが落ち着いてくる。そんな時に、ふとよぎるように気がつく。3月は東京大空襲のあった月。その時、川一面が死体でうまめつくされた、両岸は火柱に包まれたこと。急に目の前に風景が変わって見えてくる。ぞっとする。見たことのない情景を目の前に見て、思わず立っていられないような感覚におそわれる。隅田川だけでなく、いつもそう。

風景とは過去の蓄積に他ならない。過去の蓄積とは死の蓄積に他ならない。one dayで時間を介して風景と向き合う時、僕はいつも膨大な死の蓄積を前にして圧倒されるのだ。だから、あらゆる風景写真もまた、原初の風景でありまた終末の光景であるといえる。実際onedayは最初タイトルを「最終風景/The Last Landscapes」としようかと考えていた。

こんな風に僕の中で肖像写真と風景写真は死を経由して世界と向き合う行為として両方が関連しあっている。
だから、本気の本気で「あらゆる他者」を思おうとしている。とても矛盾をはらんだことだけど。

今日は暗室でインドネシア、パプア州ワメナの「コテカ(ペニスケース)をつけた人々」を焼きました。

投稿者 Ken Kitano : 20:06

2010年01月15日

NY

5日間程NYに行ってきた。久々のアメリカ大陸。初めてのNY。
写真集の営業とギャラリー、美術館、それとロケハン。なつかしい友人にも会ってきた。それとこんど一緒に仕事をする作家とミーティング。

日本では不景気で閉じたギャラリーも多いというウワサを耳にしていたチェルシーだったけれど、どうなんだろう。毎年いくつか閉じて、そして新しいギャラリーがオープンしているらしい。いろんなギャラリーがいろんな展覧会をやっていた。ギャラリーもミュージアムも特に驚く作品はなかったけど、やっぱり集まる場所なんだなあと感じた。当たり前か。

それとひとつ不満というかおかしいと思ったのは、
僕の作品がこの街のギャラリーにもミュージアムにもないこと。
これは絶対にいけない状況。
MOMAにもホイットニーにも入るようにがんばらないと。

見たもので印象に残ったのはMOMAのガブリエル・オロスコとホイットニーで大規模な作品展をしていた聾唖の女性作家(名前忘れた)が面白かった。

それとグランドゼロの印象は強く残った。資料館の亡くなった方の写真。悲劇の大きさと、一方でポートレイトの持つ普遍と強さ。
(死者と向き合う僕の主体の有り様の曖昧さを感じた。歴史的な悲劇には必ずもう一方の別の死者がいる。死者も含めた、人の存在をイメージする時のこちらの主体について、もっと自覚的でなければならない。ミリ単位で、秒単位でありようを確認して常に更新するような繊細さがいると思う。)

友人たちと会ってそれぞれのNY暮らしがいろいろで面白かった。
若い作家の友人はすでに僕からしたらビックアーチスト。人気者だから行く先々で人が集まり笑顔、テンション高め。その人の周りはキラキラ輝くような感じ。時差ぼけがきつかったので時々ぼうっとしながらいろいろ案内してもらった。ミーティングもまずまず、はじまりとして中身のある話ができました。
20年来の古い友人のYちゃんは離婚したばかり。元旦那の引っ越し先がきまらずまだ彼がいる家に食事に呼ばれた。これ、客として微妙です。元夫が古い友人の僕に、もはや主人でもないのに気を使ってくれる。しかしその家に彼の居場所は僕よりもなさそう。向こうの人だから古いアルバムとか見せてくれる。新婚旅行の京都や広島の写真とか見せる。若くて楽しそうな写真だけど、ふたりはもう分かれてる。ウ〜ん、この男はいいひとなんだけど・・・。
もうひとりのHさんはNY生活24年の写真家で映画作家。今回泊めてもらったのだけど、Hさんちの落ち着くこと。古いNYのアパートは鍵やシャワーのノズルまで癖があって、丁寧に使わないということをきいてくれないのだが、なかなか味のあるいい部屋だった。Hさんちでロバートフランクのドキュメンタリーを見ながらビール。積もる話もいろいろと。

いいNY滞在でした。天気も暖かくてよかった。時差はきついな。

投稿者 Ken Kitano : 22:06